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【コラム】難民、純血国家の韓国をノックする(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

【コラム】難民、純血国家の韓国をノックする

イエメン人549人が済州(チェジュ)空港に到着した。内戦を避けて祖国を離れた人たち、難民だ。近い欧州を断念し、イスラム国家がある東に方向を変えた。マレーシアは兄弟の入国を冷静に拒否した。この人たちの絶望的な視線に極東の小さな島、済州が入った。「平和の島」でありノービザで30日間滞在可能な楽園として映った。しかしその楽園が600年間にわたり純血主義で武装した儒教国家の断固たる城門であることを知るはずはなかった。

難民許可問題が浮上すると、法務部はイエメンをビザ免除除外国に速やかに分類した。難民を受け入れてはいけないという国民請願が30万人を超えた。血気旺盛なイスラム青年を「潜在的性犯罪者」と決めつけるような表現も登場した。犯罪と治安、雇用の心配は正当な名分ではあったが、深淵には韓半島(朝鮮半島)の長い習俗である純血主義がうごめいていていることも否認しがたい。

どうするべきなのか。難民を歓迎するカナダに送るべきか。それとも360年前に済州で難破し、動物のように生きてなんとか脱出したハメル(H.Hamel)のような運命か。当時、台風の中で命が助かった船員の中には黒人が含まれていた。済州の牧師が朝廷に文書を送った。「この集団の中には真っ黒な獣のような種子もいます。尋問をしたが言葉は風のようで、文は波のようでした」。国際難民法が発効中の今日、彼らはハメルのようにはならないだろう。この機会に逆の立場になって考えてみよう。檀君の子孫が難民になったことはなかったのか。


1905年、数百人の朝鮮人がメキシコのユカタンに到着した。エネケン農場の奴隷として売られた難民だった。現在メキシコに居住する韓人の後えいは約1万1000人。この人たちの過去100年は恨と涙で満たされている。北間島(ブッカンド)も涙の地だ。1860年代から始まった移住民は1900年に10万人、1930年代には40万人に達した。貧しく、日帝の弾圧に耐えられず、豆満江(トゥマンガン)を渡った。越北詩人の李庸岳(イ・ヨンアク)が涙を流して豆満江を詠んだ。

「眠るな、わが川よ/お前の胸を踏みにじる多くの悲しみがもどかしい/…/北間島に行くという江原道(カンウォンド)の人と向き合って座り/私はどう泣けばよいのか分からず寂しい」。1909年に日帝は清と条約を結び、北間島の朝鮮人を不法滞留者に分類した。



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