<創刊企画「大韓民国トリガー60」 ㊵>「森林復旧不可能」と判定されても…50年間に140億本、禿山の奇跡(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
2025.10.15 15:53
1970年代初め、禿山だった慶尚北道(キョンサンブクド)迎日(ヨンイル)地区が森林緑化以前と以後で変化した様子。[写真 韓国山林庁]
1964年12月中旬、西ドイツ訪問を終えて帰国中だった朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、機内で思案に沈んでいた。飛行機が大韓海峡を越えて慶尚北道迎日郡〔(キョンサンブクド・ヨンイルグン)、現・浦項市(ポハンシ)〕に差しかかったとき、彼の目に飛び込んできたのは荒れ果てて赤茶色に染まった禿山の光景だった。「我々が住む国土が、これほどまでに荒廃しているということか」。
側近たちの後日談によると、朴正煕は西ドイツから戻った後、「木々が生い茂る国土をつくることが豊かな国への第一歩」という考えを固めたという。西ドイツの豊かな森に強い印象を受けた朴は、森林関係者に「我々はいつになればドイツのようになれるのか」と尋ねたとも伝えられている。
土が剥き出しの山々は、人々の暮らしをも疲弊させていた。少し雨が降るだけで土砂が流れ出し、川底が上昇して洪水が頻発した。田畑が埋まり、農業を放棄する人々も続出した。少しでも干ばつが続くと禿山と渓谷はたちまち干上がり、農作物は枯死した。山を再び緑に戻すことは、まさに生存がかかった問題だった。荒れ果てた韓国の森林が再生するなどと期待する者はほとんどいなかった。第二次世界大戦と韓国戦争(朝鮮戦争)を経た後、国連報告書にも「韓国の森林は復旧不可能」と明記されていた。
解放直後にも森林復旧の試みはあった。1948年には植樹日(4月5日)が制定され、翌年には祝日に指定されて毎年行事が開かれた。李承晩(イ・スンマン)政府は森林保護臨時措置法を制定し植林を強調したが、効果は乏しかった。しかも韓国戦争でその努力は水泡に帰した。朴正煕政権になって初めて、森林緑化が国家政策として推進されることになった。
◇「セマウル運動と治山緑化は同じくらい重要」
1967年、農林部森林局が山林庁に昇格した。森林緑化の具体的な計画が打ち出されたのは1973年1月の大統領年頭記者会見だった。「10カ年計画を立て、1980年代初めまでに国土を完全に緑の山河にする」と宣言した。
これは国民への約束だった。農林部所属の山林庁を内務部傘下の外庁に転換し、中央官僚のみならず地方の市長・郡守にも参加を促した。1973年3月、金玄玉(キム・ヒョンオク)内務部長官は道知事、市長、郡守、警察署長らを集め、「治山緑化10カ年計画」(1973~1982年)をテーマに教育を実施した。「一に山、二にも山!一にセマウル、に二もセマウル!治山緑化とセマウル運動は同じくらい重要だ。心を一つにして推進してほしい」と訴えた。「愛国歌を歌いながら山へ行こう」というスローガンが会場に響いた〔当時の金演表(キム・ヨンピョ)前山林庁次長の回想〕。
引き金は引かれた。毎年3月21日から4月20日までを「国民植樹期間」と定め、全国民が腕まくりして参加した。赤ん坊を背負った女性から軍人、子どもたちまでが加わった。森林監守(森林取締公務員)はポニーに乗って山を巡回し、警察は各種違反を取り締まった。
初期には主にアカシア、リギダマツ、ヤシャブシなどが植えられた。痩せた土地でもよく育ち、土壌を肥沃にする、いわゆる「肥料木」だ。土壌が安定し改良が進むと、価値が高く気候変動にも強い樹種(チョウセンゴヨウ、カラマツ、マツ、ユリノキ、ヒノキ、シラカバ、クヌギ、コウチルノキなど)へと切り替えられた。治山緑化10年間で、韓国全土の20%にあたる213万ヘクタール(2万1300平方キロメートル)に集中的に植林が行われた。森林荒廃の一因だった焼畑民2万6000世帯を移住させ、焼畑地8万6000ヘクタールも整理した。雨が降るたびに黄土を流していた山々が、次第に緑の森へと姿を変えていった。
<創刊企画「大韓民国トリガー60」 ㊵>「森林復旧不可能」と判定されても…50年間に140億本、禿山の奇跡(2)
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