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<創刊企画「大韓民国トリガー60」③>突然訪れた光復…予見できなかった天皇の終戦宣言(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

白凡金九(キム・グ)

◆1949年の法律案には光復節でなく独立記念日

9月8日に韓国に進駐した米軍は呂運亨の建国準備委員会が持つ治安権と行政権を完全に回収した。しばらく取り戻した主権はこのようにまたを手から離れた。結局、45年8月15日は不完全な大韓民国の再誕生、不完全な光復だった。「光復」が意味する主権回復が実現しなかったからだ。一部では「光復」でなく「解放」という言葉が適切だという主張がある理由だ。49年9月の「国慶日制定に関する法律案」の草案は8月15日を光復節でなく「独立記念日」とした。


我々が不完全な光復を迎えた理由は力がなかったからだ。多くの憂国志士が独立と光復のために命を捧げて戦ったが、45年に迎えた光復(または解放)は米国をはじめ戦争で勝利した連合国の力によるものだったことを否認しがたい。


48年8月15日に政府が誕生した。では、その時が本当の光復ではないだろうか。やや足りないという判断だ。光復には主権の回復だけでなく「光る歴史を回復する」という意味がある。憲法に「大韓民国臨時政府の法の正統を継承する」とあるため、我々が回復するべき「光る歴史」は理念で分かれる前の一体ではないだろうか。統一なしには完全な光復を話すのが難しいという考えだ。「本当の光復節はいつか」という論争もこう整理するのはどうだろうか。1945年8月15日を「部分の光復節」、米国の軍政から抜け出した48年8月15日を「未完の光復節」、将来到来する統一の日を「完成された光復節」とだ。

◆白凡「親日派の処理、広範囲への波及は望まず」

1945年8月15日から政府が樹立された48年8月15日まで、我々にはいくつかの課題があった。大きなイシューは親日派の処理だった。白凡金九(キム・グ)は強硬派として知られた。しかし実際には統合主義者に近かった。

原則は確固としていた。45年12月に「3000万の同胞への叫び」という放送で「少なくないでたらめな政治家と親日分子、民族反逆者を粛清しなければいけない…罪悪が多くて許せない不良分子には厳罰があるべきだ」と述べた。

その一方で親日派の処理に関して次のような発言をした。「広範囲に波及することは望まない。例えば面長や里長以下まで追及すれば角を矯めて牛を殺すことになる (49年2月の記者会見)、「日本は隣国であり親日派は多いほどよい。反民族的な親日派を処断しろということであり、いつ親日派を処断しろといったのか」(白凡の秘書・故崔書勉国際韓国研究院長の回顧)。

白凡は親日派の完全な清算を叫ぶ理想主義と「建国が何よりも優先」という現実の中で折衝と統合を選んだようだ。建国という至上課題を成し遂げ、未来に進むための選択だった。未来のための統合は今でも課題だ。それだけに白凡の精神が改めて深く感じられる光復80周年だ。

イ・ワンボム/韓国学中央研究院教授



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