尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の戒厳が笑えない喜劇だったなら、宗教と政治が絡んだ三一節(独立運動記念日)の大衆集会は悲劇の始まりのようだ。政治家がそのような集会に出て行くというのは政治の機能が崩れたことを意味する。それは政治でなく扇動だ。社会がどうなろうと、機会さえ得られればよいという無責任な態度だ。少なくとも三一節の街頭で政治は死んだ。政治家も死んだ。共同体、そのようなものはなかった。路上には分断した2つの国があった。
政治が危機意識を強要して人々を路上に呼び出せば、それはもう政治ではない。合理的に問題を解決できないと話すのは、我々に恐怖を強要する脅迫だ。恐怖と脅迫は支配の方法であり、政治の方法ではない。過去にドイツの宰相ビスマルクが述べたように、政治は「可能性の芸術」だ。我々をどん詰まりまで導かないことこそが政治だ。相手が敵対と攻撃をやめれば、また平和を話して解決策を摸索できてこそ政治だ。いま我々の政治は話もできなくなっている。
他の声を聞かなくてもよく、他の人の助けがなくてもよい政治家がいるとすれば、彼は完全に正しい人であるはずだ。彼には耳を傾けるべき批判者が存在してはならない。彼が普通の人間より正しいかは知らないが、確実なことがある。統治者や政治家として彼は反社会的な存在だ。異見から学ばなくてもよい人は王だ。法を否定し、善意だけ信じろという者は独裁者だ。
我々は不完全であるため他者に依存する生活を送る。過ちを犯すことを知っているため、一党制でなく多党制民主主義をする。政党が敵であるだけで互いに対して義務感がなければ政治はあり得ない。一人支配体制や全体主義が無知の動員を最大化する理由は、相手との対話と討論を抑圧するためだ。その場に入るものは人々を敵意で目をくらませる極端と盲目だ。全体主義は民主主義に今なお残る危険だ。民主化以前には軍部独裁や権威主義はあっても全体主義はない。全体主義の危険は自由の代価だ。そのような危険は大衆の役割を間違って理解するたびに民主主義の中に入り込んでくる。
全体主義者は変えることができないものなどをとても簡単に変えようとする。彼らは完全に正しくて限りなく理想的な社会に対する熱望を利用して生きる。自分たちと考えが異なる政党や集団を軽べつしてなくそうとする。彼らの嫌悪の目録には多様性と異見、違い、葛藤が上位を占める。ただ、一致した闘争、ワンチーム、一つになるということだけが崇められる。違いや異質性は憎悪の対象だ。まさにそのために多元主義の中だけで呼吸ができる政党政治は破壊される。
民主主義を大衆の参加だけで理解する観点は全体主義に無気力だ。全体主義はいつも大衆の大規模運動を伴う。全体主義が大衆を動員し、大衆に依存するという事実を忘れてはいけない。歴代の全体主義国家のうち大衆の動員なしに樹立された事例はない。大衆の憤怒なしに維持された全体主義はない。自発的であれ強制されたものであれ、全体主義は憎悪する敵を必要とする。軍隊だけでなく憤怒する大衆も暴力の主体となる可能性があることを全体主義は見せた。
全体主義は弾圧と統制を伴う。それも残忍な弾圧と統制だ。ところがそれが可能になるのは広範な大衆が参加しているからだ。全体主義者は大衆の集団的意志と信頼を創造し、お金を集めて権力を享有する方法を知っている。反対派を大衆の熱意を通じて弾圧する方法にも慣れている。『政治を擁護する』(2021)の著者バーナード・クリックが適切に例に挙げたように「噛みつかず吠えるだけのおじけづいた反対者さえも許容しないのが全体主義だ。沈黙したり眠ったりする犬さえも静かに横になれないようにするのも彼らだ。尾を振りながら歓迎するまで全体主義的な大衆が彼らにムチで打つ」。
全体主義は伝統的な独裁とは違って受動的な服従を望まない。全力で支持して参加しなければいけない体制が全体主義だ。いま我々の社会で大規模な集会を動員する人たちは全力を注いで相手に敵対する。すべてをかけて不正と戦うという。法から自分たちの指導者を守ると叫ぶ。彼らは反民主主義者ではないかもしれない。ただ、自分たちだけが正しい民主主義、他の政党をなくしたい民主主義、法の支配を否定する民主主義なら結局は全体主義だ。
自分だけが正しいという者は結局、自分に尾を振る市民でなければ決して放っておかないだろう。いま我々の社会はそのような心を持つ人たちが多い。嘲弄と揶揄は彼らの日常だ。政治は対話して協力できない人たちがする。彼らが支配する世の中であるため、民主主義には多元主義がなく、政治に多情な合理性が宿るはずがない。我々はいま破局に向かっている。
パク・サンフン/政治学者
政治が危機意識を強要して人々を路上に呼び出せば、それはもう政治ではない。合理的に問題を解決できないと話すのは、我々に恐怖を強要する脅迫だ。恐怖と脅迫は支配の方法であり、政治の方法ではない。過去にドイツの宰相ビスマルクが述べたように、政治は「可能性の芸術」だ。我々をどん詰まりまで導かないことこそが政治だ。相手が敵対と攻撃をやめれば、また平和を話して解決策を摸索できてこそ政治だ。いま我々の政治は話もできなくなっている。
他の声を聞かなくてもよく、他の人の助けがなくてもよい政治家がいるとすれば、彼は完全に正しい人であるはずだ。彼には耳を傾けるべき批判者が存在してはならない。彼が普通の人間より正しいかは知らないが、確実なことがある。統治者や政治家として彼は反社会的な存在だ。異見から学ばなくてもよい人は王だ。法を否定し、善意だけ信じろという者は独裁者だ。
我々は不完全であるため他者に依存する生活を送る。過ちを犯すことを知っているため、一党制でなく多党制民主主義をする。政党が敵であるだけで互いに対して義務感がなければ政治はあり得ない。一人支配体制や全体主義が無知の動員を最大化する理由は、相手との対話と討論を抑圧するためだ。その場に入るものは人々を敵意で目をくらませる極端と盲目だ。全体主義は民主主義に今なお残る危険だ。民主化以前には軍部独裁や権威主義はあっても全体主義はない。全体主義の危険は自由の代価だ。そのような危険は大衆の役割を間違って理解するたびに民主主義の中に入り込んでくる。
全体主義者は変えることができないものなどをとても簡単に変えようとする。彼らは完全に正しくて限りなく理想的な社会に対する熱望を利用して生きる。自分たちと考えが異なる政党や集団を軽べつしてなくそうとする。彼らの嫌悪の目録には多様性と異見、違い、葛藤が上位を占める。ただ、一致した闘争、ワンチーム、一つになるということだけが崇められる。違いや異質性は憎悪の対象だ。まさにそのために多元主義の中だけで呼吸ができる政党政治は破壊される。
民主主義を大衆の参加だけで理解する観点は全体主義に無気力だ。全体主義はいつも大衆の大規模運動を伴う。全体主義が大衆を動員し、大衆に依存するという事実を忘れてはいけない。歴代の全体主義国家のうち大衆の動員なしに樹立された事例はない。大衆の憤怒なしに維持された全体主義はない。自発的であれ強制されたものであれ、全体主義は憎悪する敵を必要とする。軍隊だけでなく憤怒する大衆も暴力の主体となる可能性があることを全体主義は見せた。
全体主義は弾圧と統制を伴う。それも残忍な弾圧と統制だ。ところがそれが可能になるのは広範な大衆が参加しているからだ。全体主義者は大衆の集団的意志と信頼を創造し、お金を集めて権力を享有する方法を知っている。反対派を大衆の熱意を通じて弾圧する方法にも慣れている。『政治を擁護する』(2021)の著者バーナード・クリックが適切に例に挙げたように「噛みつかず吠えるだけのおじけづいた反対者さえも許容しないのが全体主義だ。沈黙したり眠ったりする犬さえも静かに横になれないようにするのも彼らだ。尾を振りながら歓迎するまで全体主義的な大衆が彼らにムチで打つ」。
全体主義は伝統的な独裁とは違って受動的な服従を望まない。全力で支持して参加しなければいけない体制が全体主義だ。いま我々の社会で大規模な集会を動員する人たちは全力を注いで相手に敵対する。すべてをかけて不正と戦うという。法から自分たちの指導者を守ると叫ぶ。彼らは反民主主義者ではないかもしれない。ただ、自分たちだけが正しい民主主義、他の政党をなくしたい民主主義、法の支配を否定する民主主義なら結局は全体主義だ。
自分だけが正しいという者は結局、自分に尾を振る市民でなければ決して放っておかないだろう。いま我々の社会はそのような心を持つ人たちが多い。嘲弄と揶揄は彼らの日常だ。政治は対話して協力できない人たちがする。彼らが支配する世の中であるため、民主主義には多元主義がなく、政治に多情な合理性が宿るはずがない。我々はいま破局に向かっている。
パク・サンフン/政治学者
この記事を読んで…