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【コラム】「名誉」を考える時間…故人となったソウル市長と白将軍

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

ヤン・ソンヒ/論説委員・中央コンテンツラボ大学評価院長

ちらついていた電球が灯った感じだった。人には結局名前だけ残るということ。死までともに行くのは「名誉」だけという、このように簡明で当然の理知が改めて頭の中を灯した。朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長と白善ヨプ(ペク・ソンヨプ)将軍。2人の大物の訃報に同時に接しながらだ。1人は人権弁護士からソウル市長になった政治家で、もう1人は韓国戦争(朝鮮戦争)の英雄で賞賛を受けた彼ら。存命中は栄誉であり、現代史に残した足跡も確実な人物だ。

しかし先週末、若干の時差を置いて伝えられた2人の訃報の前で韓国社会はもう一度分かれた。理由は多いが結局は「名誉」議論だ。「人に対する評価は棺が閉じられた後に始まる」という言葉があるが、この2人をめぐっては入棺も終わる前から落ち着かない功罪論議が起きた。

2人の生前の縁は印象論だけ語ることができる短くすれ違った程度だが、私は生前の2人の姿を記憶している。


朴市長は笑みを見せない姿を記憶しにくい。「女性たちは最も良いボーイフレンドを失った」というある人の追悼辞には賛成できなくても、彼がアイデアと意欲にあふれ、相手に「良い人」(good man)に見えるよう努める人という印象は持っている。実際に彼は良い人の暖かい言葉を駆使していたと記憶する。

そのためだっただろうか。彼がセクハラで告訴された状態で死を迎えたという事実にほとんど分裂的な感じを受けることになったのは。「功績は功績として、罪過は罪過として評価しよう」という一部の叫びが惨めに聞こえるのはこうした分裂性のためだろう。ここで彼の功績と罪過を評したくない。

ただし名誉あるソウル市長の不名誉な死の前で「名誉」というものがどれだけ簡単に壊すことができる「デリケートな物」なのかわかっただけだ。名誉は道徳性・倫理意識・信頼と対になる。名誉の反対は悪名ではない。悪人には名誉がないためだ。名誉の反対は偽善だ。人権弁護士出身、ミートゥ運動当時セカンドレイプに苦しめられた被害者の味方となった彼の姿が生き生きとしていたのにどうしてこんなことが…。もちろん彼には功績もあり罪過もあるが、押しつぶされた「名誉」はどうなるだろうか。

これに対し白将軍は笑顔を記憶できない。昨年新聞社に立ち寄った白将軍を見たのが最後の姿だ。当時白将軍は耳が聞こえず全く対話にならなかったが、韓国戦争当時の戦闘状況を繊細に回顧した。その前に2度ほど会った時も白将軍は戦争当時の戦闘を描写した。その話を聞いたならただ認めることになるものがある。

軍人としてのアイデンティティだけは透徹した人物を見ているということ。彼に関する親日議論とパルチザン討伐当時の民間人虐殺関連性問題も彼の軍人アイデンティティの延長線上で理解できる側面があるという言葉だ。そのような「一途な精神」からくる集中力が戦闘を勝利に導き、民間人が傷ついたとしても敵を掃討しようとする執念から発現しただろうという話だ。

しかし私たちは周辺を振り返らない一途な人生。他者の尊厳と彼らの人生に無関心なまま自身の信念だけで押しつける、ラカン式に言うならば「無知に向かった情熱」は道徳的・倫理的に多くの問題を起こし、他者の実存的人生に多くの苦痛を抱かせるということもわかる。名誉という「尊厳」と「品位」の問題だ。白将軍をめぐる功罪議論は「他人の尊厳を傷つけることにかかわれば自身の尊厳も得にくくなるというメッセージ」として近づく。

この世とあの世の境界は厳然とし、彼らは議論を残して離れた。もう彼らではなく生きている人々の時間だ。とにかく現代史に一線を引いた2人の人物が残して行った宿題とメッセージを通じ私たちの生活を反芻し、過ちが繰り返されないよう取りまとめなければならない時間という話だ。私たちはその時間をまともに送っているだろうか。葬儀の手続きと礼遇をめぐって政治的攻防を行い、罪過は覆い隠して功績ばかりを前面に出したり、功績は覆い隠して罪過ばかり大げさに騒ぐのがまともに時間を過ごす方法だろうか。

この不幸な時間は私たちに「名誉」に対して熟考するよう与えられたものでないかと考える。これまで私たちは名誉を富と権力を追求する者が戦利品のように得る「名声」程度と考えたのではなかっただろうか。富と権力が大きくなれば名誉も自ずと高まるだろうという錯覚。 そうするうちに今回明確にわかるようになった。名誉はそれほど与しやすくも華麗でもないということだ。甘い名声と権力に酔ってみるなら偽善者に転落しあっという間に名誉は逃げ、他人の尊厳を守ることができない強情さは名誉を「疑問だらけ」にするということだ。

いま死んだ人をののしったり肩入れするために自身の品位を捨て、特にいま最も苦痛を受けているある女性をめぐって言い争いを行う人間群像を見る。他者の尊厳を傷つける行為は自身の尊厳さえも捨てるという生々しい現場を見ながらも、なぜ同じことが繰り返されるのだろうか。名誉とは他人ではなく自身のために最後まで忍耐し真正性を守る厳しさを喜んで甘受する時はじめて自分のそばにとどまるものなのかもしれない。私たちはどのように名誉をもって生きるのか学習する機会を得た。その時間が浪費されないように…。

ヤン・ソンヒ/論説委員、中央コンテンツラボ大学評価院長



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