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【チャイナインサイト】朝鮮戦争70年、中国は韓国にどんな存在か(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

申福龍(シン・ボクリョン)元教授が「恥辱碑」と呼ばれる三田渡碑の前に立っている。後方には123階建てのロッテワールドタワーが見える。 チャン・セジョン記者

今年は韓国戦争(朝鮮戦争)勃発から70年となる年だ。歴史的に中国は韓半島(朝鮮半島)にさまざまな形で介入してきた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)では「抗倭援朝」を名分に参戦し、韓国戦争では「抗米援朝」を掲げた。米中間の新冷戦時代、中国は韓半島にどのような意味があるのだろうか。小中華と事大主義を前面に出した朝鮮時代の韓中関係が示唆する点を見てみよう。

孔子は天下を周遊していたある日、黄河の東に流れる水を眺めながら考えに耽ていた。弟子の子貢が「なぜ水を眺めているのですか」と問うと、孔子は「水は偉大だ。水は何度も曲がって流れるが、必ず東に流れる。これは人が生きる意志と似ている」(万折也必東似志)と答えた(『荀子』宥坐篇)。孔子は中国の地形が西側が高く東側が低いため、これに従って流れる水の道理を説明しただけだ。ところが孔子を崇慕する儒学者がそこに意味を加えた。朝鮮の儒者は明(1368-1644)が滅亡して中華の脈が途切れる状況で、孔子の教えが東方の朝鮮にだけ残っていると感激しながら、八道各所に「万折必東」を石壁に刻んだ。その中でも宣祖の御筆として忠清北道槐山郡青川面華陽洞(クェサングン・チョンチョンミョン・ファヤンドン)の岩刻を最も立派なものと見なした。

筆者の故郷は槐山で、母の実家が華陽洞だったため、幼い頃からよくそこに行った。そこの村の名前はもともと松面里(ソルメンイ)だったが、宋時烈(ソン・シヨル)がここに定着し、「中華の陽が暖かく照らす洞」という意味で名称も華陽洞(ファヤンドン)に変えた。当初は何も知らず万東廟に行ったが、傾斜70度の石段に危険を感じて好きではなかった。


後日、世の中に目を向けて書物を読んでからは「小中華の国の民がどうして中国の天子に会いに真っすぐ立って上ることができるのか。犬のように這って上って這って下りるべき」という意味でそのように変えたことを知った時、我々にとって中国とはどういう存在なのかと深く考えるようになった。

尤庵・宋時烈(1607-1689)の小中華論理はすなわち、壬辰倭乱(1592-1598)当時に滅びかけていた朝鮮を救った再造之恩に対する報恩と、丙子胡乱(1636-1637)の国恥を拭わなければいけないということだった。宋時烈の視点は朱子学という管見にとらわれていた。

原始人は洞窟の入口が南向きでも東側と思い込んで生きた。ベーコンが指摘した原始人の「洞窟の偏見」(Idols specus)にとらわれた朝鮮の儒者はあたかも「ガラパゴス症候群」のように退化し、朱子学の中に自身を閉じ込めた。彼らは矮と蔑んだ倭の蘭学を拒否し、世界の潮流から押し出され始めた。その結果が亡国だった。

遡ると、女真族の下級武士出身であるため明国から正統性が受けなければならなかった李成桂(イ・ソンゲ、1335-1408)の「大国を逆らうことはできない」(以小逆大不可)という開国の名分から中国に対する従属が始まった。「現代的な概念で見ると事大は屈辱でない」と強弁する点で韓国史は正直でない。韓国が中国に朝貢と人質を送ったという叙述は歴史の本でタブーになった。

こうした一連の歴史認識を代弁するのが三田渡(サムチョンド)碑を埋めた事件だった。恥ずかしい歴史も教えなければならない。暗い歴史がない民族や国家はない。漢の皇帝は北側の蛮夷と呼んだ匈奴に王女を捧げた。民族の怒りの時代に申采浩(シン・チェホ、1880-1936)のように悲憤慷慨することはあるが、歴史は和解するものであり、敵がい心を育てるものではない。

大韓民国の発展の象徴物となった123階建てのロッテワールドタワーを背景に三田渡碑を眺めると、複雑な心境だ。最後まで戦おうとした斥和派の金尚憲(キム・サンホン、1570-1652)よりは主和派の崔鳴吉(チェ・ミョンギル、1586-1647)の悩みがさらに深かっただろう。仁祖は南漢山城(ナムハンサンソン)で死を意味する黄土を道に敷いて、死体を象徴するように体を縄で縛って喪輿で山城から降りた。当時の仁祖と臣下はどのような心情だったのだろうか。

米中覇権競争で新冷戦が始まったというが、この時代の民衆はもちろん指導者も、現在の我々が中国をどのように眺めるべきか真摯に考えていないようだ。とはいえ我々は一つ胸に刻んでおくべきことがある。中国が言う「四夷八蛮」の中で現在独立国家として残っている国は大韓民国とベトナムしかないという事実だ。

それだけに我々は中国に対する愛憎がさらに深まるしかない。中国指導部はまだ李鴻章や袁世凱の思考に留まっているようだ。歴史を振り返ると、もちろん我々が中国に感謝すべきこともある。しかし我々の歴史学を見ると「善きサマリア人」は宗教的理想主義でのみ見ることができ、現実とは距離がある。恩怨の5000年の歴史で美しい追憶よりもつらい記憶が多い。善隣とは外交的修辞にすぎず、韓中関係でそのようなことは極めて珍しかった。

したがって我々の歴史学は民衆の目から白内障を除去しなければいけない。その白内障の正体は何か。まずは中国が「大きな市場」という漠然とした期待だ。これはすでに1940年代のフランクリン・ルーズベルトの誤った判断であることが立証された。魚の腹の中に鉛の塊を入れて売るのが中国の真の姿ではないのか。北京大教授時代、思想家の胡適は「中国が交渉しにくる時は彼らの虚偽に注意すべき」という言葉を残した。

2つ目は「中国が南北統一のテコ」という夢幻的な大国主義だ。中国は南北統一をさせる力はなくても阻止する力はある。これが悲劇的だ。


【チャイナインサイト】朝鮮戦争70年、中国は韓国にどんな存在か(2)

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