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<ノーベル賞の話> 2008年ノーベル残酷史-ダグラス・プラシャーの人生経歴-

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
2008年のノーベル化学賞は、クラゲから緑色を出すたんぱく質(GFP)を研究した科学者3人に与えられた。ところで受賞者リストにはGFP遺伝子を分離したダグラス・プラシャーがなかった。発表当時プラシャーはシャトルバスの運転手だったことから話題になった。

1987年プラシャーはマサチューセッツ州のウッズホール海洋研究所に研究員として就職し、米国がん学会から20万ドルの研究費をもらってGFP遺伝子のクローニングを完成させた。次の段階でGFPがバクテリアからも光を出せるのか調査するためにNIHに研究費を申請した。この時からプラシャーの人生はゆがみ始めた。GFP単独では光を出せないと疑った審査者たちの反対で、研究費をもらえないことになったのだ。定年審査で脱落すると判断したプラシャーはウッズホールを離れて研究所や会社を転々としながら失職し、自動車ディーラー店でシャトルバスを走らせることになったのだ。

プラシャーの人生経歴には科学者が学ぶべき点などがある。科学で最も重要な徳性の1つは同僚との対話と協業だ。彼は2つの面でゼロ点水準だった。例えば当時ウッズホールにはGFP研究の大家である下村脩がいたが、ジュニアのプラシャーは彼を訪ねて行って助けをこう努力を全くしなかった。彼は研究費の申請において一度脱落し、戦意を完全に喪失してウッズホールを離れた。研究費や学術誌の発表において脱落や拒絶は常にあることなのに彼は簡単に崩れた。要するにプラシャーは研究者として必要な社会的技術とストレスからの回復力をそろえられずに崩れたのだ。


プラシャーは運もなかった。1990年プラシャーはマーティン・チャルフィーにDNAを送ろうと電話したが、連絡がつかなかった。互いに忘れてしまっていたところ思い出したチャルフィーが電話をして遺伝子をもらったのは、プラシャーがウッズホールを離れようとしていた1992年だった。チャルフィーは1年後に彼をノーベル賞に導いた成果を出し、プラシャーを共同著者に含めた論文をサイエンス誌に発表した。

万が一1990年にプラシャーがチャルフィーに電話した時に連絡がついていたら、1年後の1991年にはチャルフィーの実験結果が出てGFPが単独でも光を出すことを立証し、そうすればプラシャーは研究費はもちろん定年保障も受けられただろう。この場合プラシャーはGFP遺伝子の「発明者」として多くの研究に主な参加者として活躍し、ノーベル賞を受賞した可能性が非常に高かった。1990年の一度の電話不通はプラシャーをノーベル賞受賞者とバスの運転手に分ける運命の分岐点だった。

キム・ソニョン ソウル大学校生命科学部



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