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【コラム】日本各地に残されている韓国古代国家の痕跡(2)

[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] 2019年02月18日 15時00分

  ◆当時の倭人が会った初めての外国人は伽耶人

  今日、日本の大阪四天王寺では毎年11月「ワッソ祭り」が開かれている。伽耶と百済、高句麗、新羅、朝鮮の使節団の服装に身を包んだ仮装行列参加者に向かって道端に集まった人波が「ワッショイ!」を叫ぶ。この掛け声は韓国語「ワッソ?(来ましたか?)」に由来するものだ。仏教や漢字、陶芸、建築など先進文明と文化を伝えた韓半島渡来人に対する過去の歓迎式を再現したものだ。1000人余りの仮装行列で伽耶服を着た人々が先頭に立つという。それだけ数が多かったという意味だ。

  実際、日本で陶質土器である須恵器が出現する時期は、慶尚南道金海(キョンサンナムド・キムヘ)の大成洞(テソンドン)古墳群の築造が中断される時期と重なっている。以前の日本の土器はやや軟質の土師器が大部分だ。須恵器は鉄分含有量が多くて深い灰色の輝きがあって丈夫で、王室と貴族が愛用した土器だ。5世紀ごろに日本に渡った金海の駕洛(カラク)国の遊民が作った。

  これとともに、日本語の辞典を見ると「から」という言葉があるが、「日本文化を知らない外国の人、外国文化」という説明がある。日本列島で倭人が会った最初の外国人が「から人」、すなわち伽耶人だったのだ。この「から」にはまた「唐」という意味もある。「から」は最初は外国を示す代名詞として使われたが、日本が唐と直接交易を始めながら外国の代名詞が唐になり、もともとあった発音「から」を唐に後付したという解釈がもっともらしく聞こえる。

  日本に渡って行った伽耶人の技術が当時の日本の水準とは比較できないほど優れていたものだったため、これらの政治的影響力もまた小さくなかっただろうと推測することができる。これを基に移住した伽耶人のほとんどは日本支配層に編入される。

  伽耶人の痕跡が残っている日本の地名を調べると、このような仮設がよりさらに説得力を持つ。福岡県の可也山、韓良、多多羅川、多多羅村、佐賀県の唐津、山口県の多羅、多多良山、奈良県飛鳥の賀夜奈流米神社、千葉県の太太良などがそのような場所だ。このような地名は「伽耶人が日本列島の入口である九州北部に渡って行って大和地域まで移動する過程で各地に定着しながら残した痕跡」というのが陜川(ハプチョン)博物館のチョ・ウォンヨン館長の説明だ。

  日本の天皇系が百済にルーツを置いているという仮設も日本社会に対する伽耶遊民のこのような影響力と関係がなくはないだろう。だが、それでも自惚れるようなことでもない。それは依然としてただの仮設で、たとえ事実だとしてもそれでどうだというのか。われわれが日本皇室に対して親権を行使することでもないではないか。日本は日本で、歴史は歴史にすぎないというだけだ。

【コラム】日本各地に残されている韓国古代国家の痕跡(1)

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