大邱寿城区(テグ・スソング)の寿城池(スソンモッ)近隣には毎年4月になると追悼式が開かれる日本人の墓がある。寿城区庁長や釜山(プサン)の日本総領事までが参加する。墓の主人公は水崎林太郎、寿城池を築造した人だ。水崎林太郎は1910年代の後半、開拓農民として韓国に入ってきた。大邱で測量技師として働いている間に広い水性野原で洪水や日照りになるのを見て貯水池づくりに乗り出す。1924年9月、総督府の支援に私財を加えて1年余りで今の寿城池を築造した。39年に他界しながらも寿城池が見下ろせる所に埋めてほしいと遺言をのこす。光復(解放)になると遺族は故郷である日本の岐阜県に戻り、水崎林太郎の墓は寿城池のそばに残った。
水崎林太郎と大邱の縁は、ソ・チャンキョ氏(71)によって続いた。寿城池の築造当時、農地を寄付したソ氏の父が水崎林太郎の墓をずっと世話するようにと息子に依頼したのだ。ソ氏は約7年前に地域の有志らと水崎林太郎の遺族らで韓日親善交流会をつくって墓を管理してきた。2000年からは寿城区庁に要請して4月7日に追悼式を行っている。これを聞いた日本人観光客らが寿城池を訪れている。
日本との縁が深い観光地はまだある。達城郡友鹿里(タルソングン・ウロクリ)の「鹿洞(ノクトン)書院」だ。ここにある「韓日友好館」には金忠善(キム・チュンソン)将軍の一代記や壬辰倭乱当時の朝鮮・日本軍の装備品などが展示されている。金忠善は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に総司令官だった加藤清正の精鋭大将として参戦したが、亡命した。彼は先祖から金の姓をもらって友鹿里に定住した。鹿洞書院には彼の位牌が安置されている。毎年日本人観光客2000人余りが訪れている。
中国と縁が深い観光地もある。1912年に建てられた大邱市寿城区晩村(マンチョン)2洞の祭室「慕明斎(モミョンジェ)」だ。「慕明」とは明の国を思慕するという意だ。慕明斎の後ろには杜師忠の墓がある。彼は中国の「詩聖」と呼ばれる詩人・杜甫の21代目の孫だ。杜師忠は壬辰倭乱(文禄の役)の時に明の李如松・提督の作戦参謀として朝鮮にきた。彼は戦争後に戻って丁酉災乱(慶長の役)の時に再び朝鮮に来て以来、大邱に定住した。明が滅びそうだったからだという。慕明斎の周辺には彼の話が込められた道がある。
水崎林太郎と大邱の縁は、ソ・チャンキョ氏(71)によって続いた。寿城池の築造当時、農地を寄付したソ氏の父が水崎林太郎の墓をずっと世話するようにと息子に依頼したのだ。ソ氏は約7年前に地域の有志らと水崎林太郎の遺族らで韓日親善交流会をつくって墓を管理してきた。2000年からは寿城区庁に要請して4月7日に追悼式を行っている。これを聞いた日本人観光客らが寿城池を訪れている。
日本との縁が深い観光地はまだある。達城郡友鹿里(タルソングン・ウロクリ)の「鹿洞(ノクトン)書院」だ。ここにある「韓日友好館」には金忠善(キム・チュンソン)将軍の一代記や壬辰倭乱当時の朝鮮・日本軍の装備品などが展示されている。金忠善は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に総司令官だった加藤清正の精鋭大将として参戦したが、亡命した。彼は先祖から金の姓をもらって友鹿里に定住した。鹿洞書院には彼の位牌が安置されている。毎年日本人観光客2000人余りが訪れている。
中国と縁が深い観光地もある。1912年に建てられた大邱市寿城区晩村(マンチョン)2洞の祭室「慕明斎(モミョンジェ)」だ。「慕明」とは明の国を思慕するという意だ。慕明斎の後ろには杜師忠の墓がある。彼は中国の「詩聖」と呼ばれる詩人・杜甫の21代目の孫だ。杜師忠は壬辰倭乱(文禄の役)の時に明の李如松・提督の作戦参謀として朝鮮にきた。彼は戦争後に戻って丁酉災乱(慶長の役)の時に再び朝鮮に来て以来、大邱に定住した。明が滅びそうだったからだという。慕明斎の周辺には彼の話が込められた道がある。
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