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「朝鮮より日本のほうが壊しやすかった…だから明治維新が成功した」(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

明治維新専門家の三谷博教授が中央日報とインタビューに答えている。

明治維新150年を迎えた今年一年、日本では論争が続いた。明治維新は長州藩(今の山口)と薩摩藩(鹿児島)などが中心となって徳川幕府を倒し、天皇中心の近代国家改革を行った一連の過程を称する。

山口出身の安倍晋三首相は「列強の植民地になる寸前だった危機から独立を守り、近代化を成し遂げた輝かしい歴史」としての明治維新だけを強調している。だが、「軍国主義の土壌ができ、各種社会問題の出発点となった歴史の影」にも目を向けるべきだという反論もある。

中央日報は日本屈指の明治維新権威である三谷博・東京大学名誉教授(現・跡見学園女子大学教授、68)にインタビューを行った。


4月の対面インタビュー後、3回の書面インタビューを通じて内容を補充した。日本国内の論争ポイントだけでなく、当時の東アジア諸国のうち、なぜ日本だけで維新が成功したのか、日本と韓半島(朝鮮半島)の違いは何だったのかについても光を当てた。

三谷氏は「当時の日本は韓国(朝鮮)に比べて国をひっくり返して壊すことがはるかに容易な構造だった。だから可能だった」と話し始めた。

--日本人にとって明治維新の最も大きなイメージは。

「近代化の始まりだ。明治維新が第1革命、そして戦後(連合国軍総司令部主導の)第2革命、この2つがあったから今の日本がある」

--明治維新の革命史的な特徴は。

「フランス革命などと比べて犠牲が少なかった。特に、革命の中心勢力である武士階級が革命後に消えたということが不思議だ。武士が退職金(国債と金、普段の収入の10分の1ぐらいに相当)だけをもらって他の職を探すことになった。明治維新による最も大きな変化は身分制の廃止だ」

--なぜ日本だけで可能だったか。韓国(当時の朝鮮)との違いは。

「260の藩に分かれていた連邦制的特徴と、天下の権力が天皇と将軍に分かれていた双頭制だったから可能だった。一言でいえば(国の体制を)壊しやすかった。朝鮮の支配階級『両班(ヤンバン)』は地主だったが、日本の大名と侍のほとんどは自分の土地を持っていなかった。土地がない官僚なので、彼らの権益や収入を国が奪いやすかった」

--朝鮮のほうが安定的だったから変化に不利だったという意味だろうか。

「そうだ。朝鮮は王が1人だったが、日本は2人(天皇と将軍)だった。朝鮮は科挙制度と性理学の伝統が強かった。当時の朝鮮の人々は、自身の(政治)制度を変える必要があるとは誰も考えることができなかった。科挙制があり、原則的には誰でも試験を受ければ官僚になることができた。現実はどうであれ、ひとまず『機会の平等』があった。朝鮮は日本より政治制度の整合性が高かった。(壊しにくく)しっかりと体系が整っていたため、結果的に改革が遅れたと考える」

--日本も朝鮮も外敵を斥ける「攘夷」を進めたが。

「朝鮮は本当に『攘夷』をしたが、日本の水戸藩から始まった『尊王壌夷』(君主を尊び、外敵を斥け国内に入れない)という『攘夷』は本当の『攘夷』ではなかった。『西洋と一度は戦争をしなければならない。戦争をしなければ200年以上平和が続いてきた現在の日本がどれほど危険か分からない。戦争によって現実に目を開くべきだ。そうしてこそ改革が可能だ』という意味の『攘夷』だった。西洋を排除するのではなく、国内の改革のために、導火線に火をつけるために爆弾を落とそうというものだった。リーダーたちは非常に腹黒かった。反面、朝鮮は誠実に『攘夷』を進めた」

--そのせいで鎖国政策が積極的な開国に変わったのか。

「攘夷論者たちはいつかは開国するだろうと早くから腹をくくっていた。それが韓国とは違っていた。朝鮮よりも多くの西洋人が先に日本に上陸したため危機意識が高く、そのため日本は西洋の技術に大きな関心を持つようになった」



「朝鮮より日本のほうが壊しやすかった…だから明治維新が成功した」(2)


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