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【時視各角】人をつかまえるか、社会を変えるか…韓米のデモの違い

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
まるで光化門(クァンファムン)をそのまま移ってきたかのようだった。今月24日、ワシントンDCの国会議事堂周辺の光景と叫びはそうだった。

ベビーカーを押して参加した若いパパとママ、三々五々スローガンを書いたプラカードを手に全国から駆けつけた学生たち、彼らの声に呼応する有名芸能人の公演…、お互いに抱きしめあって涙と笑いを共にする姿も似ていた。銃規制を要求する群衆は議会からホワイトハウスにつながる2.5キロメートルのペンシルバニア通りを道いっぱいに埋め尽くした。寒さと空腹の若い学生たちを応援するために、ワシントン14番街の「The Pig」、11番街の「The Bird」などのレストランは無料でバナナや飲み物を提供した。シェイクシャックバーガーなど周辺10カ所余りの飲食店は半額で食べ物を出した。米国でこのような光景を見るのは初めてだった。

感動はまだあった。55年前の1963年当時、34歳のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が「私には夢があります」で始める演説を行った場所にはキング牧師の9歳の孫娘が立った。「私のおじいちゃんには夢がありました。幼い4人の子どもたちが肌の色ではなく、それぞれの人格で評価される国で生きることになるだろう、という夢のことです。そして今、私には夢があります。銃暴力のない世の中です」。簡潔だが、的を得ていた。


だが「異質感」もあった。ワシントンデモには「ターゲット」がなかった。共通の敵がいなかった。銃規制に必要なシステム、そして制度変化を促すだけだった。ワシントンを留守にしてゴルフをしに行ったトランプ大統領を俎上に上げたりもしたが、トランプの「ト」の字さえ聞こえなかった。ホワイトハウス抗議デモのようなものもなかった。関心と焦点が「人の変化」ではなく「社会の変化」だった。

国によって歴史と文化が違えばデモも違うだろう。だが、米国の力はこのような社会的健全性からスタートしているように感じる。この日のデモだけではない。米国で始まった「#MeToo(ハッシュタグミートゥー)告発」も加害者を恥さらしにして世論裁判をするような様相は見られない。間違ったことに罰を与えるのは「法」の役割だ。本質の改善、すなわち未来に焦点がある。魔女狩り式の報道もない。自殺まで行かないと終わらないような文化もない。政治的懸案を扱う方式も同じだ。捜査機関の便宜的リーク(情報流出)はない。政権が変わっても同じだ。だから国民は信じる。ただ、幅広い討論や論争、公正な法執行と裁判、そして必要な法改正が水が流れるように行われる。

李明博(イ・ミョンバク)の拘束、チョ・ミンギの自殺は私たちにどんな意味を投げかけているだろうか。罪を犯したら罰を受けるのは当然だ。基本前提だ。だが、その過程で、私たちは皆、行き過ぎる極端を自然視、あるいは当然視する社会を自ら作り出しているのはでないか。

崖っぷち討論、崖っぷちストライキ、崖っぷち勝負…。私たちは皆、日常のこととして何気なく考えているような単語だ。だから「私の主張は絶対に間違いない」と言う意味で、「容疑が事実ならば東大邱(トンデグ)駅で割腹自殺する」「手の平で醤を煮詰めてやる」などのような極端な政治的言葉が乱舞する。そしていつからか誰もこれをおかしいとは感じなくなる。そうだろうと考えるようになる。話し手も、聞き手もだ。韓国は終わりを見てこそ終える、終わりを見てこそ終わる、そのような国になった。実に奇形的な社会だ。

だが、もっと大きな問題はその後だ。何かを終えようとする社会では、結局その矢先が「人」に向かうことになっている。腐った水を入れ替えるのではなく、真っ黒な魚をつかまえて取り除くというような形だ。新たに入れたきれいな魚? 水を掻き回すように泳いでいればすぐに汚くなってしまう。また、魚のせいになる。そしてまた、取り除かれる。ゆがんだ復しゅうと報復は、政権だけでなく国民にも習慣化する。社会を変えるか、人をつかまえるか。その根源的な質問の答えは、結局、私たちの胸の中にある。

金玄基(キム・ヒョンギ)/ワシントン総局長



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