日本の外交は賢い。日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)の時代にそうだった。その同盟は国際政治の華麗な伝説だ。海洋勢力の結束だ。相手は大陸勢力のロシア。その組み合わせは日露戦争勝利の土台となった。日本の外交は愚かだ。ナチスドイツとの同盟だ。それは日本の崩壊(第2次世界大戦)につながった。
2017年の韓半島の地政学はそのままだ。海洋戦力と大陸勢力の決戦の場だ。大陸勢力は習近平主席の中国。海洋勢力はドナルド・トランプ大統領の米国と安倍晋三首相の日本だ。日米同盟の結束力は強い。韓米同盟は追い越された。同盟は島国の日本の本能だ。私は歴史の現場を追跡した。
1902年1月30日、英ロンドン--。日英同盟が締結された。世界は驚いた。ロシアは衝撃を受けた。最強の英国は「栄光の孤立」を放棄した。新興国・日本の外交の勝利だ。同盟ドラマの始まりは日清戦争だ。日本は圧勝した(1895年)。中国の影響力が崩壊した。中国は韓半島の宗主権を渡した。その革命的な変化は史上初めてだ。
戦争は日本の軍部と外交の合作だ。外相、陸奥宗光の開戦の理由は情誼と自衛。「隣国朝鮮との友好と日本防衛のためのものだ」。偽善と傲慢があふれる。終戦場所は下関。そこは遺跡地だ。首相の伊藤博文と陸奥宗光の胸像が並んでいる。陸奥の備忘録(『蹇々録』)は日本外交力の源泉だ。ドラマは反転する。ロシア主導の三国干渉(フランス+ドイツ)だ。日本は戦利品の遼東半島を放棄した。朝鮮はロシアに傾いた。日本は残酷な野蛮行為で応酬した。明成(ミョンソン)皇后殺害事件だ。日本は談判外交に転換した。山縣・ロバノフ協定、西・ローゼン協定、満韓交換論、韓半島分割論が登場した。ロシアは拒否した。
林董は日英同盟の主演だ。1900年7月、彼は駐英公使として赴任した。彼の英語は16歳の時に英国留学で練磨された。交渉相手は英国外相のランズダウン(Lansdowne)。家門の第5代侯爵だ。舞台はランズダウンハウス。ロンドンバークレー広場付近(今はメンバーシップクラブ)にある。私はそこを訪れた。建物の外観は秀麗だ。案内人は「250年ほど経過した建物だが、一部が再建築された」とし「1世紀前の同盟はランズダウンの肖像画が飾られた部屋で類推できる」と述べた。原色の画風は貴族の体臭を感じさせる。その中に激しく老練な交渉場面が込められているようだ。私は建物の歴史書を広げた。「林公使はここをよく訪れた教養のある紳士だ。ランズダウン侯爵は彼に『日本人は礼儀正しく、秩序正しく、信頼できる』という評判を伝えた。これは中国に対する英国の認識と対照的だ」「1900年の義和団事件当時、ロシアの満州占領は中国で英国の利益を、朝鮮で日本の権益を脅かした」。ロシアの野心と疾走は激しかった。
1901年4月、本格的な交渉が始まった。
ランズダウン=英国は朝鮮に対して微々たる関心しかない。しかし英国は朝鮮がロシアの手の中に入るのを見ることを望まない。
林董=朝鮮に対する中立維持は役に立たない。朝鮮人は自治能力が全くない。…朝鮮に対する日本の利害関係を保護することが最初で最後だ」。彼は朝鮮を蔑んだ。(『林董回顧録録』(A.M.ポーリー著、シン・ボクリョン-ナ・ホンジュ翻訳)
1901年11月に伊藤博文がロシアを訪問した。林は「二重プレーは信用喪失を招く」と述べた。その動きは英国を焦らせた。桂太郎内閣は混乱を整理した。伊藤博文の親露構想は破棄された。シン・ボクリョン博士(元建国大教授)は「伊藤博文の次世代外交リーダーシップである小村寿太郎外相と林の国益を引き寄せる目と情熱が外交の快挙を成し遂げた」と述べた。
日英同盟は露骨だ。「英国の権益は中国と関連している。日本は中国での権益とともに朝鮮に対して特別な利益を持つ」。その歴史の本は断定する。「条約は日本の朝鮮支配を暗黙的に認めるものだ」。署名場所はランズダウンハウス。その時、ロンドンに大韓帝国公使(閔永敦)がいた。閔永敦(ミン・ヨンドン)は情勢の変化を知らなかった。「コリアパッシング」は衰退する国の兆候だった。
2年後、日露戦争が始まった。同盟の秘密覚書は威力を誇示した。日本の海戦勝利で戦争は終わった。その頃、第2次日英同盟が議論された。主役はランズダウンと林のままだ。第2次同盟は日本の韓半島独占を保障した。日本は強大国に加わった。1921年にワシントン体制が形成された。日英同盟は破棄された。21年間の外交同行だった。1931年に満州事変が発生した。日本の体制は軍部優位だ。その風景の中に松岡洋右が登場した。彼はジュネーブ大使時代、国際連盟からの脱退を主導した。彼の決断力のある英語の演説は強烈だった(彼は米オレゴン大学出身)。1940年7月に外相になった。
松岡の外交は渦巻きだ。2カ月後、ドイツ・イタリアと三国枢軸同盟を結んだ。米国との敵対状況は固まった。1941年4月に日ソ中立条約が締結された。彼は三国同盟を過信した。米英の圧力の防波堤と期待した。致命的な過ちだった。元老の西園寺公望は「米英を敵に回すのは外交の大失敗だ。ドイツが勝つだろうが最終勝者は米英になるだろう」と述べた。三国同盟は日本を破滅に導いた。松岡の外交は突出と破格だ。彼は信義を優先しなかった。林の回顧は核心を突いている。「友好的な列強との信義の維持が国際関係で最も重要だ」。韓米同盟の信頼基盤が揺れる。トランプ大統領の11月の訪韓反対デモは激しい。同盟が脆弱ならば国は軽く見える。
北東アジアはストロングマンの角逐の場だ。北朝鮮の核武装は緊張の要素だ。習近平主席の「中国の夢」は大胆だ。外交の夢は19世紀末に向かっている。日清戦争以前の秩序への復元だ。安倍首相は同盟の歴史的な妙味を知る。安倍首相は日米同盟を整える。その方式は日英同盟の複製という感じだ。「日本が対中国包囲網に率先する。米国は日本を支援してほしい」ということだ。安倍首相とトランプ大統領の蜜月は強まる。
安倍首相の日米同盟、100年前に大陸勢力を抑えた日英同盟の複写版(2)
2017年の韓半島の地政学はそのままだ。海洋戦力と大陸勢力の決戦の場だ。大陸勢力は習近平主席の中国。海洋勢力はドナルド・トランプ大統領の米国と安倍晋三首相の日本だ。日米同盟の結束力は強い。韓米同盟は追い越された。同盟は島国の日本の本能だ。私は歴史の現場を追跡した。
1902年1月30日、英ロンドン--。日英同盟が締結された。世界は驚いた。ロシアは衝撃を受けた。最強の英国は「栄光の孤立」を放棄した。新興国・日本の外交の勝利だ。同盟ドラマの始まりは日清戦争だ。日本は圧勝した(1895年)。中国の影響力が崩壊した。中国は韓半島の宗主権を渡した。その革命的な変化は史上初めてだ。
戦争は日本の軍部と外交の合作だ。外相、陸奥宗光の開戦の理由は情誼と自衛。「隣国朝鮮との友好と日本防衛のためのものだ」。偽善と傲慢があふれる。終戦場所は下関。そこは遺跡地だ。首相の伊藤博文と陸奥宗光の胸像が並んでいる。陸奥の備忘録(『蹇々録』)は日本外交力の源泉だ。ドラマは反転する。ロシア主導の三国干渉(フランス+ドイツ)だ。日本は戦利品の遼東半島を放棄した。朝鮮はロシアに傾いた。日本は残酷な野蛮行為で応酬した。明成(ミョンソン)皇后殺害事件だ。日本は談判外交に転換した。山縣・ロバノフ協定、西・ローゼン協定、満韓交換論、韓半島分割論が登場した。ロシアは拒否した。
林董は日英同盟の主演だ。1900年7月、彼は駐英公使として赴任した。彼の英語は16歳の時に英国留学で練磨された。交渉相手は英国外相のランズダウン(Lansdowne)。家門の第5代侯爵だ。舞台はランズダウンハウス。ロンドンバークレー広場付近(今はメンバーシップクラブ)にある。私はそこを訪れた。建物の外観は秀麗だ。案内人は「250年ほど経過した建物だが、一部が再建築された」とし「1世紀前の同盟はランズダウンの肖像画が飾られた部屋で類推できる」と述べた。原色の画風は貴族の体臭を感じさせる。その中に激しく老練な交渉場面が込められているようだ。私は建物の歴史書を広げた。「林公使はここをよく訪れた教養のある紳士だ。ランズダウン侯爵は彼に『日本人は礼儀正しく、秩序正しく、信頼できる』という評判を伝えた。これは中国に対する英国の認識と対照的だ」「1900年の義和団事件当時、ロシアの満州占領は中国で英国の利益を、朝鮮で日本の権益を脅かした」。ロシアの野心と疾走は激しかった。
1901年4月、本格的な交渉が始まった。
ランズダウン=英国は朝鮮に対して微々たる関心しかない。しかし英国は朝鮮がロシアの手の中に入るのを見ることを望まない。
林董=朝鮮に対する中立維持は役に立たない。朝鮮人は自治能力が全くない。…朝鮮に対する日本の利害関係を保護することが最初で最後だ」。彼は朝鮮を蔑んだ。(『林董回顧録録』(A.M.ポーリー著、シン・ボクリョン-ナ・ホンジュ翻訳)
1901年11月に伊藤博文がロシアを訪問した。林は「二重プレーは信用喪失を招く」と述べた。その動きは英国を焦らせた。桂太郎内閣は混乱を整理した。伊藤博文の親露構想は破棄された。シン・ボクリョン博士(元建国大教授)は「伊藤博文の次世代外交リーダーシップである小村寿太郎外相と林の国益を引き寄せる目と情熱が外交の快挙を成し遂げた」と述べた。
日英同盟は露骨だ。「英国の権益は中国と関連している。日本は中国での権益とともに朝鮮に対して特別な利益を持つ」。その歴史の本は断定する。「条約は日本の朝鮮支配を暗黙的に認めるものだ」。署名場所はランズダウンハウス。その時、ロンドンに大韓帝国公使(閔永敦)がいた。閔永敦(ミン・ヨンドン)は情勢の変化を知らなかった。「コリアパッシング」は衰退する国の兆候だった。
2年後、日露戦争が始まった。同盟の秘密覚書は威力を誇示した。日本の海戦勝利で戦争は終わった。その頃、第2次日英同盟が議論された。主役はランズダウンと林のままだ。第2次同盟は日本の韓半島独占を保障した。日本は強大国に加わった。1921年にワシントン体制が形成された。日英同盟は破棄された。21年間の外交同行だった。1931年に満州事変が発生した。日本の体制は軍部優位だ。その風景の中に松岡洋右が登場した。彼はジュネーブ大使時代、国際連盟からの脱退を主導した。彼の決断力のある英語の演説は強烈だった(彼は米オレゴン大学出身)。1940年7月に外相になった。
松岡の外交は渦巻きだ。2カ月後、ドイツ・イタリアと三国枢軸同盟を結んだ。米国との敵対状況は固まった。1941年4月に日ソ中立条約が締結された。彼は三国同盟を過信した。米英の圧力の防波堤と期待した。致命的な過ちだった。元老の西園寺公望は「米英を敵に回すのは外交の大失敗だ。ドイツが勝つだろうが最終勝者は米英になるだろう」と述べた。三国同盟は日本を破滅に導いた。松岡の外交は突出と破格だ。彼は信義を優先しなかった。林の回顧は核心を突いている。「友好的な列強との信義の維持が国際関係で最も重要だ」。韓米同盟の信頼基盤が揺れる。トランプ大統領の11月の訪韓反対デモは激しい。同盟が脆弱ならば国は軽く見える。
北東アジアはストロングマンの角逐の場だ。北朝鮮の核武装は緊張の要素だ。習近平主席の「中国の夢」は大胆だ。外交の夢は19世紀末に向かっている。日清戦争以前の秩序への復元だ。安倍首相は同盟の歴史的な妙味を知る。安倍首相は日米同盟を整える。その方式は日英同盟の複製という感じだ。「日本が対中国包囲網に率先する。米国は日本を支援してほしい」ということだ。安倍首相とトランプ大統領の蜜月は強まる。
安倍首相の日米同盟、100年前に大陸勢力を抑えた日英同盟の複写版(2)
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