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【時視各角】応答せよ1998=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
1997年のクリスマスはただただ暗鬱だった。人の脳は悲しくて苦しいことはすぐに忘れるという。それでもその日の記憶は今も鮮明に残っている。国が頂点を極めていた時だった。国際通貨基金(IMF)と先進7カ国(G7)はその日、韓国に対する救済金融を決めた。外信は「クリスマスプレゼント」と呼んだ。ミシェル・カムドシュIMF専務理事は「偽装された祝福」という言葉を使った。その直言に怒りはしたものの、表面では金持ち国の善心にただ感謝しなければならなかった。心の中では再びこのような恥辱を受けないようにと歯を食いしばり血の涙を流した。

数日後に迎えた98年は地獄そのものだった。漢江(ハンガン)の橋には通行する車両が途絶えた。ウォン価格が一気に下落して原油安に耐えることができなかった。閉鎖された第一銀行の職員は「涙のビデオ」を撮影した。「再びこの地に我々のような悲劇がないことを…」という言葉が流行語にもなった。数万人があっという言葉も出せないままに離職を強いられた。強いドルの恐怖はそのようにしてこの地に深く刻まれた。

98年の大韓民国はしかしギリシャとは違っていた。強く団結して国を救おうと立ち上がった。政界や財界・労働界も一つになった。大統領は「IMFの要求以上の改革を進める」として「IMFプラス」を約束した。ビッグディールと構造調整、財閥改革は一瀉千里に行われた。労使政府委員会は大妥協を成し遂げ、国会は整理解雇を含んだ労働法を通過させた。「売れるものは全て売ろう」。人々はタンスの中の金製品を持ち寄った。当時、報道機関の中堅記者だったAは「市警キャップが出入処を離れる時は感謝盃が与えられる。感謝盃の警察マークは純金でできていたが、これすらも外して金集め運動本部に行った」と話した。


その年は言論もグル(?)になった。3大新聞社の中央日報、朝鮮日報、東亜日報とハンギョレ、京郷も分け隔てなかった。当時構造改革の指令塔だった金融監視委員会出入り記者は自ら「救国の戦士」と言って自嘲した。「国のために」言論の核心である「批判機能」を“スイッチオフ”にする時が多かった。財閥が改革過剰を訴えても目を閉じた。過激労組が職場を爆破させると威嚇しても耳をふさいだ。



【時視各角】応答せよ1998=韓国(2)

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